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1988年に発刊され、以来、日本のみならず海外でも読まれロング&ベストセラーとなっている、吉本ばなな氏の小説『キッチン』。人の孤独や死を軽やかで優しい文章で描いた独特の世界は、心に響く名フレーズも多出。かつて読んだ人も再読の喜びにきっと出合える本作を、平野啓一郎氏が解説します。
共に暮らしていた祖母を亡くし、天涯孤独となった桜井みかげは、ひとつ歳下の大学生・田辺雄一とその母・えり子の家で暮らすことを誘われる。心優しい雄一と、男性で生まれながら今は女性として生きているえり子との、奇妙でいて自然な日常を送るなか、みかげの心は次第に再生していく。
えり子が、気の狂った男に殺される。田辺家を離れ、料理研究家のアシスタントとして働くようになっていたみかげは、雄一から知らせを受け、久しぶりに田辺家にかけつける。家族がまったくいなくなってしまった雄一の深い寂しさに寄り添い、二人は新たな関係を築いていく。
平野啓一郎(以下、平野):吉本ばななさんの『キッチン』は世界で最も評価されている日本の現代文学のひとつで、ヨーロッパのなかでも特にイタリアでベストセラーとなりました。僕が1998年に『日蝕』でデビューし、海外の文学シンポジウムに招待された時にも、『キッチン』がよく読まれる日本文学として挙げられていました。
『キッチン』は吉本さんが24歳の時に書かれた作品です。非常にテンポの良い口語的な文体で、「海燕文学賞」という新人賞を受賞されています。角田光代さんや小川洋子さんもその新人賞を受賞されて新しい時代の女性文学が大きな新しい流れを作っていきますが、吉本さんはその嚆矢となった作家だと思います。
主人公のみかげは、幼くして両親を失い、唯一の肉親だった祖母も亡くなり、「天涯孤独な気持ち」になるというのが冒頭です。全編にわたって「死」が描かれますが、重苦しい印象ではなくて、軽快に読み進められる。同時に、なんとも言えない寂しい気持ちにもなる。この世界に人間が生きている根本的な孤独感がジワっと喚起されるのが、素晴らしい文学的効果だと思います。世間が浮ついていたバブルの時代に、この作品が広く読まれたというコントラストも興味深いですね。
平野:この作品は「私がこの世でいちば好きな場所は台所だと思う」という文章から始まり、なぜ好きなのかということが書かれます。こういうのはやっぱり、センスですよね。身内の死や、そこからの回復を、ただ出来事として書くのではなくて、「キッチン」という空間を中心に書いていく。これは非常に技術的な書き方だと思います。
人間の生死と孤独がテーマですから、もしタイトルをつけるとしたら、たとえば『喪失』でもいいし、「居場所」というニュアンスを表したいなら、『ソファー』や『リビング』でもいいかもしれない。ですが『キッチン』としたのには、この物語では「食べる」という行為が人間関係において重要な意味を持っているからで、やっぱり『キッチン』しかないと思わされます。
また、漢字の「台所」ではなく、カタカタの「キッチン」であることにも意味があると思います。女性が家族という形態に埋め込まれて、「台所」が唯一の居場所とすると、古い時代の主婦の心象風景を描くような小説のイメージになってしまいます。それに対してこの作品では、家族がそもそもいないという出発点から始まり、疑似家族という人間関係の中で生きていくときに、「キッチン」という居場所に落ち着いていく。「女性」と「台所」との古い意味での結びつきから解放されて、もっと主体的に、自由にいられる場所という響きになっていますよね。
「神様どうか生きていけますように」 (『キッチン』角川文庫 p.51)
「神様なんていないのかしら」 (『キッチン2』同 p.119)
平野:作品の中盤と終盤に、呼応するように書かれている言葉です。『キッチン』を読んでいると、この世界には救いがないように感じます。宗教だとか、社会的な制度だとか、外在的な救いは準備されていない。しかし、主人公は「雄一」という青年と出会い、関係を築いていく。ギリギリのところで踏み留まって、最終的には人間同士の関係性を通じて精神的な救いに至るという物語になっています。印象的な言葉がいくつも出てきますが、登場人物同士のコミュニケーションにこそ救いがあるこの作品において、重要な機能を果たしていると思います。
僕の「分人主義」に当てはめて考えると、大切な人が亡くなった時、「死者との分人」が自分の中で比率が大きいと、「あの人と一緒にいる自分をもう生きられない」という非常に大きな喪失感に襲われます。『キッチン』のみかげも、祖母や、えり子さん(雄一の母)の前での自分をもう生きることはできない喪失感を感じています。しかし、雄一との関係が深まるにつれて、生きている人間との分人の比率が大きくなる。死者との分人の比率は決してなくならないけど、少しずつ小さくなっていく。それが、「分人主義」という観点で見た時の「喪の作業」であり、グリーフケアです。
平野:この作品には最初から最後まで、難しい言葉は出てきません。あくまで平易な言葉を使いながら、日常生活からこぼれ落ちているような微妙な感情を表現し、孤独感を喚起しています。一見、”よくある”表現だけど、この文脈にあるからこそ発揮される効果があり、伝わってくる空気感がある。こういうやり方で、難しい言葉を使わなくても複雑な感情を伝えられるということに、励まされた人たちも多いのではないでしょうか。
本作が出たあと、エピゴーネンのように類似した作品も書かれましたが、真似できそうで、できなったものも多かったように思います。その違いは、「客観性」が重要なポイントだと思います。この小説は一人称で書かれていますが、吉本さんは決して、自分の感情を投影する人物として主人公を造形していない。「私の気持ちを見て!」というのではなく、非常に注意深く、読者の意識が筆者ではなく登場人物に向くように書かれています。
もちろん、作者は自分の関心ある主題でないと書けませんし、自分とまったく関係のない人物については書く気が起きません。ただ、「自己表現」になってしまうと、読者がうんざりしてしまいます。そういう意味では、「共感できる心情を抱えた他者を書く」くらいの距離感を持つことが重要なのかもしれません。
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Jun Mizukami
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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