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週刊プレイボーイの元編集長であり、現在はエッセイスト&オーナーバーマンの島地勝彦が語る『お洒落極道』。第10回は時計大国スイスの最高峰であるパテック フィリップの大規模展覧会《パテック フィリップ・ウォッチアート・グランド・エキシビション》で、歴史的な時計の数々を鑑賞してきました。時計を見て思い出したのは大恩人の自慢のパテック フィリップでした。
このほどパテック フィリップの全機種とその輝かしい歴史のすべてを開陳する《ウォッチアート・グランド・エキシビション》という大展覧会が新宿で大々的に開催された。早速シマジは担当編集者・高橋の案内で夢のような会場に駆けつけた。パテック フィリップ史上最大規模の展覧会とあって、ヒストリカルピースから最新の複雑モデル、そしてオブジェまで珠玉の約500点を目の当たりにしたのである。
パテック フィリップの華麗なる歴史のはじまりは、1844年のパリ万国博覧会でのアントワーヌ・ノルベール・ド・パテックとジャン・アドリアン・フィリップの運命的な邂逅からであった。社名を2人の苗字を組み合わせて「パテック フィリップ」と改称したのは、1851年のことである。その年のロンドン万国博覧会でリューズ巻き上げ式懐中時計を出品して話題をさらった。パテック フィリップは見事に金賞を獲得した。このロンドン万国博覧会場に訪れたヴィクトリア女王に恭しく献上されたペンダント・ウォッチが今回のエキジビションの目玉のひとつである。その当時、紳士は懐中時計で淑女はペンダント・ウォッチだった。ヴィクトリア女王のペンダント・ウォッチの裏蓋にはブルーエナメルとゴールドの細工が施され、中央にはローズカットダイアモンドによる花の細工が施されている。ヴィクトリア女王はこのパテック フィリップのペンダント・ウォッチを大変にお気に召され、女王のお墨付きを得たのも同然だった。シマジが間近でつぶさに凝視していても、目が眩むほど燦然と輝いている。
「高橋、恐れ入ったね。感激しっぱなしだ」「これはジュネーブにあるパテック フィリップ・ミュージアムの貴重なタイムピースを、以前ドバイやシンガポールでやったときよりも追加してスイスから持ってきた大展示会ですから、確かに見応えがありますね」「じゃあ、高橋はジュネーブのパテック フィリップ・ミュージアムには何度も足を運んでいるんだね」「はい、ジュネーブを訪れるたびに見に行っていますが、あのミュージアムは飽きることはありません。輝ける歴史を育んだ絢爛豪華なパテック フィリップのアート作品群が東京に大集合して見られるのは、貴重な機会です。しかも予約なしの無料で観覧出来るとは、日本の時計文化の成熟による多大な恩恵といえます」「王侯貴族や権力者たちの時計から、目の眩む複雑時計、工芸的なアート作品のような時計もたくさん展示されていたね」
ヴィクトリア女王をはじめとする王侯貴族のみならず、キリスト教の頂点に鎮座するローマ教皇ピウス9世もパテック フィリップの懐中時計をこよなく愛用した。「至上の教皇、あなたが精神と心をお導きくださる ジュネーブ、1867年6月」と献辞が刻まれたタイムピースは、ローマ教皇ピウス9世の証である三重冠と鍵とを組み合わせた紋章が多色の七宝によって鮮やかに描かれている。またソヌリやリピーターといった音で時を知らせる時打ち機構の頂点を極めた懐中時計の「レグラ公」も特別な存在感を放っていた。5つのゴングを備え、ウェストミンスターの鐘のメロディを再現できるという。それを見た後に「現行コレクション・ルーム」と呼ばれるミニット・リピーターやアラームを備えた現行モデルをすべて集めた展示ルームは圧巻であった。普通に生きていたら、その中の1つを見るのも一生に一度あるかないかの代物というと、どれほど貴重な体験かが理解できるだろう。
シマジの82年の人生のなかで、スイス時計の至宝といわれているパテック フィリップの腕時計を間近で見たのは、25歳のときだった。「週刊プレイボーイ」の新人編集者になったシマジは、運良く「眠狂四郎」をこの世に誕生させた時代小説作家の泰斗、柴田錬三郎先生の人生相談『キミがやれ、オレがやらせる』の担当編集者に抜擢された。シマジより24歳年上の文豪、柴田錬三郎先生は自宅ではいつも和服を粋に着こなしていた。その袖口から出ていた華奢な手首には特別なオーラを放つ腕時計が見えた。シマジが芸術品のような美しい腕時計を興味深そうに眺めていたら、文豪は軽いアクビをしていった。
「シマジ、これはスイス時計の至宝といわれているパテック フィリップだよ。お前が将来集英社の社長になったら、パテック フィリップをつけんだね。そうしたら贅沢とは何なのかがわかるってくるはずだ」「はい」シマジは恭しく返事をした。
その後、シマジは41歳のとき「週刊プレイボーイの編集長に抜擢され、幸運にも51歳で役員になった。そして57歳のとき集英社の子会社である集英社インターナショナルの代表となり、67歳で42年間の愉しかった集英社の編集者人生の幕が閉じられた。だがシマジの手首にはパテック フィリップの姿はなかった。集英社から頂いた高額な所得は、ほとんど高価なウイスキーとレアなシガーに消えてしまったのだろう。そしてシマジは82歳の現在、西麻布のオーセンティックバー、「サロン・ド・シマジ」のカウンターに毎晩立って「バーカウンターは人生の勉強机である」と嘯いている。
シマジは大展覧会を見終わった後、シバレン先生のパテック フィリップを再び見たくなった。展覧会で展示されていた日本をモチーフとしたレアハンドクラフトの限定モデルを見ていたら、どうしてもシバレン先生とその時計を思い出さずにはいられなかったのである。腕に巻かれたパテック フィリップの蠱惑的な美しさに憧憬の念を抱いていた。それにも増してシマジの月給が2万円の時代に、シバレン先生のパテック フィリップは500万円もしたと聞いて、さすがは当時ナンバー1の売れっ子作家は選ぶ時計も違うと驚いた。しかし、どんなデザインでどんな機能を持つ時計だったかは、どうにも思い出せなかった。
その時計が今どこにあるかはだいたいアタリがついていたから、AdvancedTimeの発行人である神山に調べてもらうことにした。シマジが集英社の現役社員だったころ、将来、柴田錬三郎記念館を開館するために多くの遺品を預かっていたのである。現在は一ツ橋綜合財団が管理しているという。しかし、残念ながら調査してもらった所蔵リストにはパテック フィリップは入っていなかった。思い出の時計は消息不明となったのである。
パテック フィリップは創業以来、販売されてきた時計や顧客の販売台帳が残されている。そこにはヴィクトリア女王をはじめ、パテック フィリップに魅了された王侯貴族たちの名が刻まれている。当然、販売台帳には日本人顧客の名前も記載され、柴田錬三郎の名が載っているはずである。いつかシバレン先生の愛用した時計にまた出合いたいと願っている。
シバレン先生がこの大展覧会をみたら、どんな時計を気に入っただろう。唐宋詩人の詩に精通した先生のことだから、和歌を手書きした「ドーム・テーブルクロック」だろうか。もしくはやはり木象嵌で描いた叙情的な侍の時計だろうか。剣客ブームを巻き起こした先生には日本刀の鍔をモチーフにした文字盤デザインの時計もお似合いだ。シマジは大展覧会で鑑賞しを終えても、しばらくの間、パテック フィリップの時計と在りしのシバレン先生との思い出に耽ったのであった。
大学卒業後、集英社に入社。「週刊プレイボーイ」編集部に配属され、1982年には同誌の編集長に就任し、100万部の雑誌へと育て上げた。その後「PLAYBOY」「Bart」の編集長を務める。柴田錬三郎、今東光、開高健、瀬戸内寂聴、塩野七生をはじめとした錚々たる作家たちと仕事を重ねてきた。「お洒落極道」「お洒落極道 最終編」(小学館)など著書多数。現在は西麻布にあるサロン・ド・シマジにて、バーカウンターの前に立つ。
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