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名作として知られるトルストイによる長編小説『アンナ・カレーニナ』。世界的に称賛される、その魅力はどこにあるのでしょう。第4回は小説家・平野啓一郎が解説します。
~あらすじ~
政府の高官の夫をもち、ペテルブルグ社交界の花形でもあるアンナ・カレーニナは、兄夫婦の喧嘩の仲裁のために訪れたモスクワ駅で、青年将校ヴロンスキーと出会う。彼女の美貌に心奪われた、この青年からの熱心な誘いをアンナは拒み続けるも、俗物官僚の夫カレーニンとの愛情のない日常への倦怠から、ふたりはやがて激しい恋に落ちていく…。1870年代のロシアを舞台に、道ならぬ恋に進む男女とふたりを取り巻く人々の造形までをこまかく描いた大作。
ヴロンスキー アンナと不倫関係になる貴族の青年将校
オブロンスキー アンナの兄。役所の長官
キティ ドリィの妹
コズヌイシェフ リョーヴィンの異父兄。作家
平野啓一郎(以下、平野):僕はもともとドストエフスキーが好きでしたが、作家になり分人主義的な観点から昔の古典的な名作を読み返したときに、トルストイの人物造形は分人の描き分けが非常に巧みで、これがトルストイの魅力だなと思いました。『アンナ・カレーニナ』でも、夫のカレーニンと過ごしている時のアンナ、ヴロンスキーと一緒にいるときのアンナ、あるいはカレーニンと暮らしながらヴロンスキーと一緒にいるときのアンナ、兄、子供といる時のアンナ、ドリーが来訪し二人で話している時のアンナや、リョーヴィンといる時のアンナ、それぞれの描き分けが非常に巧みで、読み応えがあると思います。
※「分人」とは…平野啓一郎氏が、著書『私とは何か〜「個人」から「分人」へ』等で提言する、人間の基本単位。個人は、対人関係ごとに見せる顔といえる「分人」をもち、さまざまな分人で構成されているという主義に基づく。以下の公式ムービーでも解説。
>https://youtu.be/KAZywRmbzQE
平野:今回、光文社古典新訳文庫(望月哲男訳)で再読し、改めて思ったのですが、『アンナ・カレーニナ』は、もう一人の主人公リョーヴィンの物語としても抜群に面白いと思います。ですが、リョーヴィンの魅了が何かを表現するのは結構難しい。ドストエフスキーの小説に出てくるような、非常に強固な思想を持ち、イデオロギーを体現したような人物や、人殺しなど怪奇なことをする人物ではありません。また、リョーヴィンは高邁な理想を持って突き進み、運命を切り開いていくというような英雄的なタイプの人でもなく、農村経営に乗りだしても、ドラスティックな改革を進めることはしませんでした。異父兄コズヌイシェフは、インテリとして農民と関わることが大事だと主張しますが、リョーヴィンは農民との生活を自分と一体化していて、農民との距離の取り方に悩みます。
彼は、年下の女性キティに純粋に憧れつつ悩み、いよいよ結婚するときは、敬虔なる信者でないことに罪悪感を感じます。リョーヴィンは世の中の平凡な価値観に従って生きつつ、そのこと自体に疑いを持ち、細かいことにも誠実に考え抜いていく、その連なりが彼を非常に魅力的な人間にしています。ドストエフスキーの登場人物のように、暗黒世界の中で絶望的にもだえ苦しみながら悩んでいるのとは違います。彼は自殺の危機に瀕するぐらい、最後には非常に深い悩みを抱くのですが、人柄の良さが滲みでるというのか、平凡な人生を、悩みながらも意義あるものとして生きようとする真っ直ぐな姿に、大変感動的なものが感じられます。
図式的な対立ではない、何か表現し難いものを言葉にして表現するところに文学の良さがあるとすると、今自分がこう生きているという、生活自体を全面的に肯定するような思想を着地点にしているリョーヴィンは、決して特別な人間ではないけれど、何かそういうものを非常に上手く体現した極めて類まれな登場人物だと思います。
平野:この小説は冒頭で、主人公ではないオブロンスキーの不倫騒動で妻ドリーとの夫婦喧嘩から始まっていますが、よくあることとして描かれています。これに対し、不倫によって追い詰められたアンナとヴロンスキーは、みんなが隠れてしていることを、おおっぴらにやったから責められているにすぎないという描写があるわけですが、小説の最後では、カレーニンとアンナの確執が深まって、アンナが思い詰めて自殺してしまう。長編の物語全体の中で、ふたつの不倫が対照的に、緻密な構成で描かれていると思います。
平野:はい。皆、自分の名において意見や価値判断を求められると、保守的な事しか言えず、価値観が硬直していくと思うんです。でも、文学作品の中には、アンナのように道に外れた人が出てきても、彼女が孤立してしまった状態や彼女の性格的な問題などを読者は思いやって考えたりすることができます。その人に共感する気持ちがあるから、不倫してるからダメだとか、さすがにそこまで硬直的なことは言わないと思うんですよ、それがいいかどうかは別にして。文学を題材にして、自分から少し引きはがした意見として言えるのが、文学を話題にするところのいいところだと思います。それが社会の価値観というのを柔軟にしていくうえで、すごく重要だと思います。
平野:小説の後半では、アンナがヴロンスキーへの執着を深めていくのに対し、彼はそれに応えきれなくなっていくため、彼女は今でいう、「メンヘラ」のような状態になっていきます。こういう姿をみて思うのは、恋と愛の違いです。
以前から僕は、恋愛を恋という状態と愛という状態に分けて考えてはどうかということを提案しています。恋は短期的に激しく燃え上がり相手と結ばれたいと強く願う感情で、それに対して愛は関係の継続性が重視される概念だと考えています。人間は激しい恋の状態のときには愛の状態に憧れるし、穏やかにずっと結ばれているような愛の状態が続くと、激しく誰かに恋し思いを寄せる状態にまた憧れる。この両方がシーソーのように揺れ動くのが人間の恋愛感情なのではないかと思います。アンナの場合も、カレーニンとの愛が続きながら、ヴロンスキーに恋をしている状態のときは良かったのに、ヴロンスキーとの愛という関係が始まってしまうと満たされないというのは、非常によくわかる話です。
平野:アンナは当時の女性なので仕事も持たないのに対し、ヴロンスキーは生き甲斐をもって社会的な仕事を通じていることも、アンナをひとり思い詰めやすくしていきます。こういう時代背景も大きな問題となっていて、トルストイはそれも伝え、哀れみをもってアンナを描いていると思います。
少年少女の恋というのは、学校で勉強すること以外に社会的にしなければならないことはあまりないですよね。だから若者の恋はお互いに好きになったら、思い合うことで満たされることが理想的になるけれど、大人の恋愛となるとそれぞれに仕事や社会的な責任もあり、いつも相手のことばかり考えてずっと一緒にいるわけにはいきません。社会と個人のバランスの中で恋愛するのが、大人にとっての常識的な恋愛なのではないかと思います。
だから小説も、大人になって本当に全てを投げ打って、仕事も何もかも捨てずっと一緒にいようというのは逆に共感しにくいし、そんなことが可能なのかという疑問も抱きます。『マチネの終わりに』で「大人の恋愛」を描くにあたって、結構それは意識したテーマでした。それぞれに仕事やすべきことがありながらも、同時に、相手のことも好きだという思いや行動を貫くのが、大人の恋愛なんだと思います。
この続きは、平野啓一郎さんと「文学の森」でもっと語り合ってみませんか?
「平野啓一郎の文学の森」は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークルです。3か月毎に定めたテーマ作を、月に一度のライブ配信で読み解く、小説家による小説解説!
7月〜10月のテーマは、レフ・トルストイ著の『アンナ・カレーニナ』。ご参加後は過去のアーカイヴも視聴可能です。次回は、平野啓一郎著『ある男』です。
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Junko Tamura
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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