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この秋、映画化され話題を集めている小説『ある男』を、著者である平野啓一郎がナビゲート。第7回は、創作過程や主題としたことを中心に解説します。
~あらすじ~
弁護士の城戸は、依頼者・里枝から亡くなった夫「大祐」の身元調査を相談される。夫婦は結婚して幸せな家庭を築いていたが、夫は不慮の事故で命を落とす。弔問に訪れて遺影を見た夫の兄から、「大祐」でないことを知らされたのだった。里枝が愛していた人物は誰なのか。城戸は調べていく中で、本来の出自から逃れ、全く別人として生きていた「ある男」にたどり着いていく…。
平野啓一郎(以下、平野):映画は限られた時間の枠に収めるために、小説とは別の映画的なロジックで場面を繋げる必要があります。ですから原作通りではありませんが、映画として見るとすごく納得できる作品になっています。『ある男』は複雑なテーマが絡み合っている小説ですが、それを捨象しすぎずに、うまく生かそうとして取り組んでいただいたのがよく伝わってきます。才能のある俳優の方たちが集まって、いいお芝居をしてくださったので、原作者として非常に喜ばしいですし、映画と合わせて、ぜひ小説も読んでもらいたいです。
──映画と原作、それぞれの良さがあるのはもちろんのこと、その上で「原作ならでは」の部分があるとしたらどういったところでしょうか?
平野:『ある男』はかなり哲学的な小説でもあり、アイデンティティの問題や、なぜ死刑制度か間違っているのか、差別とは何なのか、といった議論がなされます。映画では、小説のように言葉によって徹底的に論じていくことにはならないので、その部分は原作を読んでもらわないとどうしても伝わらないと思います。
──『ある男』はどういう着想、また問題意識から書かれたのでしょうか。
平野:僕は小説家として、アイデンティティの問題を考え続けてきました。基本的に僕は、一人の人間を生まれながらに「こういう人間だ」と決めつける考え方に対して抵抗感があり、僕が提唱している「分人主義」も、本質主義それに対抗する手段だと言えます。『ドーン』という小説を書いた頃から、そういったことを考え始め、「人間にとって、どうしても変えられないものとして残るのは何か?」という疑問を持ちました。
現代社会において、政府やある権力が人間を管理するときに「個人」という単位が使われています。「個人」を戸籍なり国家的IDに登録することを通じて管理するのが基本中の基本です。その管理圧と、管理されることから逃れたい欲動とは、ずっとシーソーのように揺れ続けている。
日本の場合、個人の管理は「戸籍」によって行われます。「親ガチャ」という言葉が流行っているように、生まれ育ちは選べないので、それを変えることはできないのが常識ですが、出自に悲惨なものがあって、どうしてもそれから逃れたい人たちが、過去を変えることを実現しようとしてもおかしくないし、実際にいるのではないかと思ったのです。インターネットが発達し、アンダーグラウンドなサイトも多々あるなか、戸籍交換という方法もありうるのではと思いついたのです。
そのようなことを考えている中で、「愛する人の過去が、聞いていた話と全然違ったとしたら、どういうふうに受け止めるのだろう?」という問いにたどり着きました。『ある男』でも、里枝は、大祐だと信じていた「X」という男と出会い、その境遇や過去に共感し、エピソードを共有しながら徐々に好きになっていきます。家族として一緒に暮らした時間があったのに、ふたりを結び付ける上で大きな理由のひとつだった「過去」が全く嘘だったとわかったら、どういうふうに感じるのかと思いを巡らし、これは物語の主題として面白いのではと思いました。
──「アイデンティティ」や「人間にとって過去とは」ということに加えて、もうひとつ、「他人の傷を生きる」ということも作品を通じて描かれる主題ですが、そのお話も伺えますでしょうか。
平野:自分の抱えている問題について自分だけで考えていると、どんどん落ち込んでいく場合でも、自分と近い経験をした人の話を経由して自分に戻ってくると、もう一度そのことに向き合えたり、自分の心の傷に触れたりすることができる。共感のお陰で慰められたりします。そのメカニズムに僕は興味があって、フィクションはある種の「経由地」として、大きな意味があるのではないかと思うのです。
僕自身も、学生時代にトーマス・マンの小説を読んで主人公に共感し、「まさに自分のことだ」と、すごく孤独が慰められたことがありました。特に初期の『トニオ・クレエゲル』や『ブッデンブローク家の人びと』は、芸術に憧れつつ市民社会にも憧れ、その両方のどちらで生きるべきかと思い悩む主人公が、小説家に憧れつつ普通に生きたいと思っていた自分の心情とすごくマッチして、とても魅了されたのです。
その登場人物たちが僕に似ているかというと、むしろ違うところの方が多い。小説を書いていても思うことですが、読者は登場人物に共感したいと思っていることは間違いないけれど、読者と等身大の人物を書いたら満足かというと、必ずしもそうではない。むしろ、違う人の中に自分と同じものを見出すということが重要なのです。
この小説のメカニズムを『ある男』の作品の中に内在させようと思いました。城戸が在日という出自を3・11以降に意識しはじめて、「X」の正体を探るうちに、どうしても自分の出自を隠したかったという「X」の境遇に感情移入していきます。むろん、死刑囚の子供だった「X」と、在日三世の城戸とでは、何の接点もない。にもかかわらず、なぜか共感するということが、違う人の中に自分と同じものを見出し感動するというメカニズムと重なります。「小説とは何か」ということを、作中人物を通じて表現できるのではないかと思いました。
──平野さんは小説を書き始める前に、その小説のテーマを象徴するようなクライマックスのシーンをまず思い浮かべるそうですが、『ある男』ではどの場面がクライマックスだったのでしょうか。
平野:『ある男』のクライマックスを物語的にイメージしたのは、森の場面です。大祐を名乗っていた人物・原誠が事故に遭った森に、城戸が実際に行くと、その幻が見え、彼が振り返ったような気がしたというシーンです。
新約聖書の中に、百匹の羊がいてその一匹が迷子になり、それを探しに行く有名な話があります。ルカによる福音書です。僕はカトリック系の中学に通っていて、聖書の授業があったのですが、このことを自明のことのように教えられるとすごく不思議で、「いや、九十九匹ほっといて、一匹を探しに行くかな? 仕方ないと諦めるのではないか?」と当時は思いました。しかし大人になると、信仰とは別に、やっぱりひとつの話として味わい深い話だなと思うようになったんです。これは、神と罪人との関係を表現したたとえですが、一匹を探しに行く方が、人間としての振る舞いとして美しいと思います。
その話と重なって、人間社会の外側にポツンと置き去りにされているような名前もわからない存在を、城戸が探し続けて迎えに行ってあげるような物語になるのだと、最終的に自分の中でイメージできたんです。そこで最後に声をかけるとしたら、「ずっと探してたんですよ」と言ってあげるのではないか。そして、そう言われたら、きっと嬉しいだろうと思ったんです。そこから小説の構図全体が見えて、これで書き始められると思いました。
この続きは、平野啓一郎さんと「文学の森」でもっと語り合ってみませんか?
「平野啓一郎の文学の森」は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークルです。3か月毎に定めたテーマ作を、月に一度のライブ配信で読み解く、小説家による小説解説!
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Junko Tamura
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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