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平野:以前、亀山さんとは、『罪と罰』のスヴィトリガイロフという男が、非常にニヒリストで嫌な人物に思えるけれど、とても魅力的なんじゃないかと話したことがありました。僕も彼は、ある意味人間的で、主人公のラスコーリニコフよりも深みのある人物として仕上がっている気がしています。
亀山:私は翻訳の時まで入れると『罪と罰』を読むのは五回になりますが、やっぱり最後はスヴィトリガイロフに魅力を感じました。ドストエフスキーは父の死後、「人間は謎だ。謎である以上、書かなければいけない。そのためには一生を費やしても時間の無駄とは言わせない。なぜって、自分は人間でありたいから」と書いています。その謎の深さを最も表している登場人物として、スヴィトリガイロフを描いているんです。
そして、このスヴィトリガイロフはおそらくドストエフスキーにとって、自分の父のイメージなんです。スヴィトリガイロフの住んでいた家は、ドストエフスキーの父親が殺された現場近くに設定されていて、かなり自伝的な要素を反映していると思います。だから、あれだけの謎めいた人物を造形できたと言えるのではないでしょうか。
平野:ドストエフスキーは物語が面白いとかキャラクターが魅力的なだけでなく、場面を描くのが非常にうまい“名場面製造機”だと思います。『罪と罰』で、スヴィトリガイロフがドーニャと別れてから絶望して、何度も夢を見て、最後は自殺してしまう場面があります。あそこは、作品の中でも白眉というか、何回読んでも胸を打たれます。非常にうまい。自殺のときの門番とのやり取りも、よく思いついたものだと思います。
亀山:あそこは素晴らしい場面です。平野さんも、それに匹敵する場面がいくつかありますよ。『決壊』のラストシーンを読み直しましたが、非常に素晴らしい。
平野:とんでもないです。ありがとうございます。
───ドストエフスキーの小説を読んで難しいと感じると同時に面白いと思うのは、登場人物の独白が続くところです。この議論が繰り広げられるロシアの社会状況を、現在の私達の社会状況に照らして理解できるでしょうか。
平野:長い独白は、ロシア人にとっても異様に感じられるのか、それとも文化として自然なのでしょうか。
亀山:思うに、時間感覚がロシア人には希薄です。あれだけの大自然の中で生きているので、ものごとがすべてユックリズムで動いている。私がロシアで長く過ごしたのは、1990年代半ばですが、バスも平気で遅れてきますし、約束の時間に30分遅れるのは日常茶飯事で、非常におおらかというか鷹揚というか、そういう時間感覚の中で生きていました。ただし現代のロシア人は、私の記憶するロシア人よりも多少ともモダナイズされているかもしれません。いずれにせよ、規律などに関する考え方は脆弱ですし、それは突き詰めて言うと、ひとりひとりの人間の自我、自己の確立が非常に遅れているということになると思います。と同時にそれは、彼らが精神的に豊かで、開放されている証しでもあるのです。
端的に言うと、豊饒と冗長が一体となっている。たがいに、「生命の全体性に対する」というと少し大げさですけれど、そうしたものに対する肯定があるので、何時間喋ろうが互いに許し合う、という信頼関係が成立している。ドストエフスキーにしろトルストイにしろ、長広舌が現れてくるのいうのは、彼らの生命感覚と一体となった時間感覚の表れだというふうに思います。ロシア人は言葉の民なのです。
───最後に、これからドストエフスキーを読んでいく人に向けて、その魅力についてメッセージをいただけますでしょうか?
亀山:このような質問をいただくことになると思って、作文してきました(笑)。読み上げさせていただきます。「ドストエフスキーを読む快楽とは一体何なのか。人間というのは、主観的にも客観的にも謎だということ。遺伝子の解明がどこまで進もうと、AIの進化がどこまで進もうと、人間は謎のまま残る。最終的に我々は、科学の力で乗り越えることができない、偶然との闘争という問題に最終的に行き着くだろう。だが言葉が存在する限りにおいて、というよりも、認識する主体というものが個人である限りにおいて、つまり個人が個人として存在する限りは、謎は決して消えることはない。」つまり、文学という密林は永遠に消えることはないということを言いたいなと思って作文してきました。
平野:ドストエフスキーというのは、作家として巨大で、読むとエネルギーが満ち満ちていて、人間として何かものを考えるということを、根本的にドストエフスキーによって後押しされるような、非常に稀有な存在です。AIが小説を書けるのかどうかというのが昨今議論になっています。何か書くかとは思いますが、やはり人間が書いた小説の方がすごい、という最後の砦としてドストエフスキーの小説があると思います。もしAIが、これを超えるものを書けば、もうお手上げだと思いますが、そういう日は来ないだろうと思います。そういう意味では、本当に大げさではなく、人類が残した文学の中でも傑出した作品がドストエフスキーの小説なのではないかと痛切に思います。僕も繰り返し読んでいきたいと思いますが、読めば読むほど、発見があります。これから手をつけてみようかと思われる方も、ぜひ今日の対談をヒントにしながら、読んでみてください。
ドストエフスキーについて話を伺うとなると、亀山さんをおいて他にはないということで、聞いてみたいことをいろいろと質問させていただいて、非常に丁寧に、また情熱的に答えていただきまして、僕も大変贅沢で楽しい時間を過ごさせていただきました。皆さんにも、いろいろと心に残る言葉があったのではないかと思います。ありがとうございました。
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
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Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Jun Mizukami
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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