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ドストエフスキーの5大長篇『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』『未成年』すべてを17年かけて完訳するという偉業を成し遂げた、ロシア文学者で翻訳家の亀山郁夫氏を招いて対談。「自分は人間でありたいから」と、人間が人間の謎を探究し情熱を込めて書かれた文学作品の最高峰。人間が謎である以上、AIが進化をしても作品化はできない、傑出した文学作品の魅力を語ります。
対談者:亀山郁夫
1949年生まれ。名古屋外国語大学学長。東京外国語大学名誉教授。専門はロシア文学、ドストエフスキー関連の研究。著書に『新カラマーゾフの兄弟』『謎とき「悪霊」』『ドストエフスキー父殺しの文学』ほか多数。訳書にドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』『白痴』ほか。2023年1月に長編小説『未成年』の完結編となる新訳第3巻を刊行、17年かけて取り組んできた、ドストエフスキーの「五大長編」の新訳が完結した。
平野啓一郎(以下、平野):ドストエフスキーの世界的な学会が開催され大変な盛況でしたが、不参加表明などもあり、プーチン政権の戦争以降、ロシア文学やドストエフスキーが読まれていく環境に大きな変化もありました。
亀山郁夫(以下、亀山):ドストエフスキーという作家はしばしば、文学そのものとして読まれるより、政治的な主張の書として読まれることが他の大作家と比べて大きく、とくに今のような時代にあって、彼をとりまく環境は世界的レベルで悪くなっていると思いますね。それは、とくに晩年の彼の反ユダヤ主義的な傾向や、どちらかというと好戦的なところがあるためです。ただし、好戦的といっても今日的な感覚とは少し違って、そこには宗教的な信念や自己犠牲の精神が脈打っています。ロシア文化全般についていうと、実は私も、ロシア的なものにより育まれた芸術に嫌悪感を覚えた時期がありました。むろん今回の「侵攻」が影響しています。
そうとはいえ、日本に関するかぎり、ドストエフスキーやロシア文学をめぐる状況が悪化しているとはいえません。それは戦争や政治に無関心だからということではなく、日本人が彼の文学を受け入れてきた年月が長く、しっかりした受容の基盤ができているからだと思います。要するに、状況に左右されず、文学、芸術の根本に触れようという曇りのない目が育っているからです。まさに成熟の証しです。
平野:亀山さんとドストエフスキー、ロシア文学との出会いについてお話しいただけますか?
亀山:1964年頃、15歳の夏にドストエフスキーの小説『罪と罰』に出合いました。2週間もの間、あたかも主人公のラスコーリニコフに自分が憑依したようになっていました。主人公が老婆を殺す場面では、自分が犯罪を犯したように夢でうなされ、「自分の手から血の匂いが消えない」と友人に話していたそうです。
平野:衝撃的な本を読んだ時に、痕跡を残すような感覚があるのは僕もよくわかります。僕にとっては三島由紀夫の『金閣寺』でした。ドストエフスキーの『罪と罰』は、僕ものめり込んで読みましたが、”ニヒリズム”に特に強く共感し、心動かされました。読んだ時期が90年代後半の日本の雰囲気と非常に似通っていたというのが、のめり込んだ原因だったと自己分析しています。亀山さんが読まれた15歳の頃はソ連時代でしたので、今と状況が非常に違っていたのではないでしょうか。
亀山:当時、私はまだ中学生で、作品に描かれた19世紀ロシアの社会にすっぽりと呑みこまれていたので、ソ連とか冷戦時代という観念はなかったですね。言い換えると、世界は自分の精神の延長線上にあって、これを客観化できていない状態でした。『罪と罰』のなかに「大地からの断絶」という表現があるのですが、罪を犯すことがいかに恐ろしいことか、主人公の青年ラスコーリニコフとともに、世界いや大地から引き離されるような物凄い孤独を味わいました。平野さんはどうですか。
平野:最後の、ロシアの大地に接吻して自分の罪を悔い改めるという着地点に非常に感動しました。これがロシア的なるものなのかという感じも受けましたが、どうでしょうか。
亀山:その場面で、主人公は快楽と幸福を覚えながら、一瞬の間、救済を経験します。「大地からの断絶」という孤独を一緒に感じていた私自身も、大地との一体感と同時に猛烈な開放感を味わったのです! 何十年も生きてきて、自分自身のなかに”正直であれ”という思いが強いのは、主人公がセンナヤ広場の地面に接吻した感覚が自分の中に残っているからかもしれません。大地への接吻というのは、優れてロシア的かつ東方的な感覚であるような気がしますね。
平野:ドストエフスキーが作家人生の集大成として『カラマーゾフの兄弟』を書いたことについて、お話しいただけますか。
亀山:私の最大の関心は、ドストエフスキーという作家と作品の関係性です。つまり、『カラマーゾフの兄弟』を彼の自伝として読み解くというのが私のアプローチの基本で、どういう意味において自伝かということを、もう何十年もの間、考え続けています。
ただし、『カラマーゾフの兄弟』には「著者より」と題された序文で明かされている通り、続編として「第二の小説」が予告されていました。この続編である”第二の小説”は、自伝というよりも、歴史小説的な要素を含む、もう一人のドストエフスキーが書く小説だと私は捉えています。
父殺しの問題の根本に潜んでいる歴史的な意味、文化的な意味、そして象徴的な意味、それはロシアの歴史を考えることそのものなんですね。ロシアがなぜ、今このようにすさまじい状況の中にあるかという問いに対する答えも、実はこの『カラマーゾフの兄弟』の中にあるのではないかと思っています。
平野:僕にとってもドストエフスキーは非常に大きな影響を受けた作家で、なかなか手の届かない作家です。作品を読むと、自分のものを考える力が後押しされるといえばよいのか、より深いところまでものを考えていくような力を与えられるというのが、ドストエフスキーの文学だと思います。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Jun Mizukami
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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