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深く、濃く、味わい豊かに読書を楽しむ。小説家・平野啓一郎が作品や著者のあふれる魅力をナビゲート。vol.1~3は森鴎外著『舞姫』『阿部一族』です。
~あらすじ~
寛永18年(1641年)。肥後藩主・細川忠利の死後、生前より主君の許可を得ていた側近たちは殉死を遂げていくが、許しが下りなかった阿部弥一右衛門は新藩主に仕え続ける。しかし、命を惜しんでいるとの周囲からの誹りに耐えられず、自らの意志で切腹。その結果、主君の命に背いた殉死として阿部家は降格となる。不満を抱いた嫡子・権兵衛の行為も不敬として縛り首に処され、一族は悲劇的な最後を迎えていく。
対談者 : 金杭(KIM Hang)氏
1973年生まれ、韓国ソウル所在のヨンセ大学文化人類学科教授。専門は植民地主義・政治思想・東アジア近現代知性史。日本語の著書に『帝国日本の闇』(岩波書店、2010)のほか複数の論考があり、韓国語でアガンベンやシュミットの翻訳など、多数の著書・訳書や論文がある。
平野啓一郎(以下、平野):韓国では日本文学が多く翻訳されていますが、鴎外の位置や存在はどういったものでしょうか。
金杭(以下、金):森鴎外の作品はほとんど翻訳されており、『阿部一族』は表題の短編集もあります。私自身は、代表作は日本語で以前に読んでいますが、今回の対談準備で、韓国語訳の『阿部一族』を読みました。しかし韓国語の翻訳は、完全に現代語で書かれていますから、炭酸の抜けたコーラみたいな感じで、本当に拍子抜けするんですよ。鴎外の魅力はやはりこの渋い文体にあるのだということをつくづく感じます。鴎外は硬質で独特なゴシック的な文体で語られないと、その世界感が全然伝わってこないですね。
平野:『阿部一族』を含め、鴎外の歴史小説は、地の文は『春秋左氏伝』など、中国古典の文体を範として書かれ、非常に格調高いです。一方、会話の部分は、派手なやりとりはないものの、微妙な心理の綾、感情の機微に触れるような表現になっており、翻訳がかなりうまくないと、そのへんはなかなか伝わらないのだと思います。
文学は文体と内容が非常に複合的に混じり合って成立しているものだから、この問題は常にあり、日本文学は翻訳されると別物になってしまうことがよくあるそうです。アメリカの日本文化研究者が授業をしているときに、川端康成の作品を英語翻訳すると、何故このような通俗的な話がノーベル賞を受賞するのかという疑問を呈する学生が結構いるそうです。
鴎外と川端康成の文体はまったく違いますけれど、どちらも翻訳しにくいという意味では同じです。ただ、鴎外自身はドイツ語もよくできたし、ヨーロッパ系の言語のリズムや構文を熟知しており、それまでの近代以前の江戸時代の黄表紙本などの文体に比べると、非常に欧米化された日本語だと思います。とはいえそれが漢学の素養に基づいて組み立てられているので、ある意味不思議な、純日本的文体というよりもハイブリッドな文体だと思うんですよね。
平野:『阿部一族』の金さんの感想はどうですか?
金: 文体にまどわされて、壮大な話かと思って、辞書を引きながら読んだのだけれど、本当にバカな話なんですよね。殉死という制度のよしあし以前に、前の殿様の一周忌の席でああいう(阿部弥一右衛門の嫡子・権兵衛が自らのまげを切る)行為をしたり、一家が立てこもって内乱状態になったりして、よくわからない。これらを鴎外はどう解釈していたのか想像力をかきたてられます。
平野:鴎外は、わざと、今の感覚では理解し難いことを題材に選んでいますね。保守派の論客には、武家社会独特のエートスを描いていると解釈する人たちもいましたが、僕はちょっと違うと思っています。『阿部一族』に先立って書かれた『興津弥五右衛門の遺書』にもいえることですが、当時の武士が立派だと書いているのではない。イデオロギーに完全に同化した人物という、近代的な合理的な視点でみるとそれは愚かで滑稽にしか思えないことを書いている。鴎外自身は忠孝的な価値観がそのまま引き継がれた軍隊という組織にいて、その中で組織図通りに行動していた。その完全に国家的なイデオロギーに忠実に生きる人間の矛盾をかなり強く感じていて、しかも近代になったにもかかわらず軍隊という組織には忠孝の精神が生き延びている。それを敏感に感じ取るものがあったのではないかと思います。
金:同感です。いわゆるサムライ精神への哀愁はまったくない。殿様への人格的な忠誠があるが、それ以上の上位の規範はない。西洋的な枠組みのように、殿様が間違ったことをしたときに反逆をすることはなく、関係がねじれたときに、下級武士は結局、すねてしまう。単に人間が小さいとかではなく、前近代的な規範意識がどれだけ微弱だったかを鴎外は見せたかったのではないでしょうか。
平野:日本でも江戸時代に超越的価値観を備えた朱子学を体制維持のイデオロギーとして導入していきますが、そういうことを吸収した知的な武士は一部にすぎず、普通の武士たちを支えていのは、もっと単純化された忠孝です。そして、先代の殿様が阿部弥一右衛門に殉死を許さなかったのは、なんとなく嫌いという話なんですね。深い意味がない。それに対して、周囲から批判的な意識というのもまったくない。この小説は日本の封建制度が最も完成された時期の話ですが、この頃は武家社会のエートスが批判精神を兼ね備えていなかった、というのも鴎外の着眼だと思います。
金:今回読み終わって、興味深かったのは、個人のメンツです。阿部弥一右衛門は殉死を許されなかったとき、殿様に尽くせず悔しいとなるのではなく、世間の視線が耐えられずに死ぬ。息子も家督の石高が減らされて不平不満を感じる。ただメンツなんですね。
平野:とにかく恥を被るということが大きなストレスでした。西洋のように、超越的な何かに対して感じる罪悪感とは違う。忠孝の規範意識がすみずみまでいきわたっていた時代の恥という意識にピンとこないと、登場人物たちの行動が理解できないという面もありますね。
平野:鴎外のように社会構造の中から人間の生を考えていこうとすると、英雄的な能力をもっていて、その人個人の能力によって人生を開拓して、困難を乗り越えていくという物語は書けなくなる。しかし、一般にエンタメとして多くの人が求めているのはそういう人物です。社会構造と一切関係のないところから超個人的な能力に恵まれた人が、その社会に対して反逆するという物語を読みたいんだけど、鴎外はやっぱり社会について見れば見るほど、そういうことは起こりえない、と思っていたのではないでしょうか。登場人物の行動を、それは仕方なかったんじゃないかという書き方で記している。
金:『阿部一族』もそうですが、鴎外の作品は近代小説のある種のプロトコルには従っていないですね。典型的な近代小説は、主人公が成長するか自殺するかのどちらか。でも鴎外の小説は、そういうプロトコルからちょっと離れたところで作品をつくっているから魅力的。その点ではやっぱりすごい作家だと思います。
平野:日本でほかの作家の方たちと話していると、老年にたどりついて最後の渋い文学として、鴎外の史伝を読みこむ人が多いようです。ある社会の誰々と誰々が親戚で、誰のところで息子が生まれて…という、特に英雄的な主人公も見当たらず、ただフラットにいろんな人がずっと並んでいるだけの話だけど、引き込まれる。それこそが鴎外のみせる「人の世」なんですよね。
金:史伝など鴎外の後期の作品は、人間を人間たらしめる最小限の要件はなにかをずっと問うているような気がします。生き様とか生のドラマとかではなく、人格的に結ばれた記憶とそれを実証する家系、つまり人間関係のツリーが、人の依拠するところなのだということを示しているように思います。
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Junko Tamura
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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