『空白を満たしなさい』(2012年)

空白を満たしなさいの画像
平野啓一郎著『空白を満たしなさい』講談社

~あらすじ~

ある日勤務先の会議室で目覚めた土屋徹生は、自分が3年前に自殺したことを知らされる。しかし、愛する妻と幼い息子に恵まれ、新商品の開発に情熱を注いでいた当時の自分に自殺する理由など考えられないとし、実は自分はころされたのではないかと疑問を持ち、事実を追っていく物語。

「見守る、でいいんじゃないかな?いやな自分になってしまった時には、他のまっとうな自分を通じて、静かに見守れば。消そうとしても、やっぱり、深いところで色んなことが絡み合ってるんだよ、多分。また絶望的な分人が生じて、それが勝手に走り出しそうになった時には、俺と一緒にいる時の今の徹生君になって、まあ、そう考えずにって、腕でも摑んで引っ張り戻せばいいよ。──」

読者が選んだ「一節」

この作品は、僕が36歳のときに書いた小説です。僕の父親は36歳で病気で亡くなり、その年齢を迎えることが、ずっと一種の恐怖でした。親より長生きする感覚がうまく想像できず、遺伝的な要因で自分も親の享年で死ぬのではないか、という不安感があった。そのため、父親の死を自分なりに文学的な主題にして、精神的に克服したいという気持ちがありました。

一方で、リーマン・ショック以降、年間3万人近くが自死し、特に若い人の自死は深刻な社会問題でした。僕の周りでも自死してしまった人が何人かいて、その問題──人が自死に至ってしまうメカニズム──を考えたいと思い、『ドーン』で考え出した分人という考え方を、内面的に深化させて書いた作品です。

自殺は自分自身に対する全否定的な感情です。自分は統合された存在、一個人だと認識すると、自分を否定する気持ちになったときに、自分の全部が嫌いになる懸念があります。一方で、現実世界で人間は分人化して、いくつもの自分を生きていると認識すれば、本当に辛い自分は、いくつもの分人の中の一つに過ぎないんだと思える。そのような相対的な視点が得られれば、最悪の手段を選ばずに、生を持続させていく具体的な方法を見出すことができるのではないかと考えました。

選んでいただいた一節は、嫌な自分を無理に消そうとするのではなく、自分が生きていて心地良い分人を通じて、その嫌な分人を「見守る」ぐらいの形でいいんじゃないかと、考え方を示しています。分人については『私とは何か 「個人」から「分人へ」』という新書で詳しく説明しています。

『ドーン』(2009年)

ドーンの画像
平野啓一郎著『ドーン』(講談社文庫)

~あらすじ~

2036年のアメリカを舞台に人類初の有人火星探査に成功した英雄的クルーたちが、ミッション中に起きた「とある出来事」のために、熾烈なアメリカ大統領選に巻き込まれていく壮大な物語。顔認証技術と組み合わされた防犯カメラネットワーク「散影」など、現実的/哲学的な未来予測の数々が注目された作品。

船体に亀裂が走った時に、そこを叩いて壊そうとする馬鹿はいない。しかし、人間関係の場合、必ずしもそうした抑制が利くわけではない。分かっていて、亀裂をさらに広げようとするかのような言動をつい取ってしまうのが人間だ。

読者が選んだ「一節」

平野:イラク戦争以降、日本は安全保障の分野でアメリカとの一体化が急激に進み、2000年代からは完全にアメリカ一辺倒の安全保障政策になったため、米大統領選のゆくえが日本人の国際的な立場にも直結してしまうようになりました。その影響の大きさから、米大統領選を文学作品として取り上げました。

また、平行して宇宙飛行、有人火星探査を舞台にしています。火星探査は行って帰ってくるまでに、地球と火星の周回軌道の関係で大体3年ぐらいかかるそうです。船体の閉鎖空間の中にクルー6人を3年間も閉じ込めておいて、精神が持つのかを考えると、多くの人はもたないと直感的に思うのではないでしょうか。

一節は、主人公のボスであるNASAの高官が、諭すように話す場面です。宇宙船はここではメタファーですが、同じクルーとずっと一つの人格を生き続けることが苦しいんじゃないかと僕は考えました。人間は、会社ではこういう人格を生きているけど、一歩、会社を出て別の人といると、別の人格を生きることができる。この小説を書くことで、複数の人格を生きるバランスの中で、人間は精神を保っているのではないかと考えるようになり、分人主義という思想に至りました。

『葬送』(2002年)

葬送の画像
平野啓一郎著『葬送』新潮社

~あらすじ~

ショパンとドラクロワという二人の天才の友情を中心に、2月革命前後のブルジョワジーの精神史を綿密な取材と時代考証に基づき創作した作品。文庫本では、第一部と第二部がそれぞれ上下巻で構成されている。

この時のショパンの美しさは、誰にも言葉にすることが出来なかった。どれほど多くの音楽家がいることかしれない。どれほど卓越した技巧を誇り、聴衆を虜にする華を備えた音楽家がいることかしれない。しかし、彼らがいかに憧れ、いかに努力してみても、決して模して及ばぬものがショパンにはあった。ショパンにだけとさえいえるほどに、それは彼に於て特別であった。

読者が選んだ「一節」

平野:昔からショパンは好きだったのですが、彼を主人公にすることで、国民国家が形成されていく19世紀半ばの様々な問題を書こうとした作品です。同時に、彼と親しかった画家ドラクロワの人生を対比させることで、面白い物語ができるのではないかと考えました。ショパンは7月王政期を生きた音楽家で、2月革命の後にすぐ亡くなってしまいますが、ドラクロワは王政復古期から第2帝政期ぐらいまで、非常にしぶとく生き残りながら作品を描き続けた画家。2月革命前後を舞台にして、二人の人生をフォーカスするのがいいのではないかと思いました。

全四巻の大作ですが、僕の本の中では断トツにこれが好きだと言ってくださる方も結構いて、実はじわじわと重版され続けています。

『日蝕』(1998年)

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平野啓一郎著 『日蝕』新潮社

~あらすじ~

15世紀末、ペストの流行によって荒廃した南フランスの小さな村を舞台に、旅の途上の若き学僧の聖性体験を、華麗な文体で描き出し文壇に衝撃を与えたデビュー作。錬金術の作業過程と魔女裁判とが原始的に交錯する重層的な構造で、クライマックスの焚刑の場面は圧巻。累計48万部のベストセラーとなった。

私の息は少しく荒かった。先に通った広い径から、再度狭路に入ってより、既に久しく歩いている。低い天井を伝わる水は絶えず私の頭皮を濡らし、地下川の細流は足下を濡らしている。深閑とした洞内には、石より溜る雫の音が、鼓動の如く、規則的に響いている。汗が冷め、私は俄かに悪寒を覚えた。

読者が選んだ「一節」

平野:90年代、世紀末の閉塞感が世界を覆うなかで、僕は厭世的になるのではなく、世界を価値化するような思考を求め、解放されたいという感情を非常に強く持っていました。当時大学の思想史を受講し、エリアーデの宗教史・歴史哲学、更に『中世思想原典集成』を読みながら、中世のキリスト教の神秘主義に関心が向いていきました。

錬金術は、その作業プロセスの体験が非常に重要で、目的論のプロセスに介入して、それを促進させ、単なる石ころを金のような存在にさせる技術で、時間の流れに介入することができる知的な体験と説明されています。賢者の石を使って錬金術を行えば、石が金になるように、無価値な世界を価値化することによって現実を肯定していく、それが当時、つまらない世の中をどう生きていこうかと思っていた僕の心にも非常に響いたところがあり、『日蝕』の創作に至りました。

デビュー作は、さすがに今の自分からは少し距離があります。文体のせいもあって、老成した作品のように見られるところもありましたが、若くないと書けなかった作品だと思いますね。

──時間の都合上、すべての作品に触れることはできませんでしたが、デビュー作から最新作に至るまでの平野作品をざっと振り返ってきました。最後に、平野作品のファンの方、あるいはこれから一冊目を手に取る方に向けて、一言いただけますでしょうか。

平野:僕は読書の魅力に十代で目覚めて、文学が自分の支えになってくれました。読み出したらのめり込んで、自分の精神が保たれていくというプロセスは、『ある男』で悠人という少年の体験としても書きました。

本の良いところは、誰にも強制されないところです。本人が読みたい気持ちが少しでもないと、絶対に読まない。小説家も、読者に本を読む選択の自由があるからこそ、自由にものを書けると思っています。

今日お話を聞いていただいて、もし、ちょっと読んでみようかなって気になった方がいらっしゃれば、手にとっていただければ幸いです。本日は長い時間、どうもありがとうございました。

この続きは、平野啓一郎さんと「文学の森」でもっと語り合ってみませんか?

「平野啓一郎の文学の森」は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークルです。3か月毎に定めたテーマ作を、月に一度のライブ配信で読み解く、小説家による小説解説!

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PROFILE
小説家 平野 啓一郎
小説家
平野 啓一郎

1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。

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