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星野リゾートとのコラボレーションで、日本を旅することの魅力をより深く、多彩に追求していく連載企画。長年日本の津々浦々を旅してきた画家・イラストレーターの小林泰彦が、日本各地の星野リゾートを訪ね、その地の魅力の実像を掘り下げる。第二回目は『OMO5東京五反田』を起点に、歴史が重層する城南五山エリアと、目黒川河岸に広がる繁華街とのコントラストが生み出す個性を、さまざまな場所と人を訪ね描き出す。
目次 /
・御殿山と島津山に、先達のレガシーを見る
・『OMO5東京五反田』その1~街を楽しむ旅をバックアップする拠点~
・『OMO5東京五反田』の宿泊券をプレゼント
画家、イラストレーター
小林泰彦
こばやしやすひこ/画家、イラストレーター。1935年、東京・日本橋生まれ。武蔵野美術学校中退。社会風俗、環境、街、旅、自然、スポーツ、登山やハイキングなどのイラストレーションを中心に、制作活動中。小説の挿絵や本の装丁などのほか、絵と文によるレポートや紀行のような仕事も数多い。また、文具類、食器類、衣類など小林泰彦のライセンスプロダクトも展開されている。国内外の旅によく出かけ、自然の中で過ごすことが多い。近刊は『にっぽん建築散歩』『続・にっぽん建築散歩』(ともに山と溪谷社)、『イラスト・ルポの時代』『ヘビーデューティーの本』(ともにヤマケイ文庫)、『ヘビトラ大図鑑』(トゥーヴァージンズ)など。
五反田は街中を東西に流れる目黒川を境にして、北に「城南五山」といわれる御殿山、八ツ山、島津山、池田山、花房山という邸宅街があり、南には国道1号線や中原街道沿いに新興ビジネス街やその先の広大な住宅地が広がっている。 この対称的な立地こそが五反田の価値を決めるもので、またこの地のゲニウスロキ(土地の可能性)を示しているとも思って興味津々、今回の五反田探索を始めた。

城南五山の東端にある御殿山は昔から旧東海道品川宿(じゅく)を下に見る桜の名所として知られ、太田道灌が江戸へ入城する前にこの地に館(やかた)を構えたのが御殿山の名の由来とある。 その後徳川家康もこの景勝地を選んで品川御殿を設け、茶会や鷹狩りを行う別邸とし、また仮御殿であったそれを寛永十二(1635)年に小堀遠州が改装したとあるのは忘れてはならないことで、その後大火で焼失して再建されなかったとはいえ、〈土地の記憶〉としてどこかに名残りを留めているのではないかと思う。 ずっと下って幕末は文久元(1861)年、安政の五カ国条約で各国公使館が江戸に置かれる際に頻発するテロを怖れた幕府は市街地から離れた御殿山を提案、諸国の同意を得て幕府作事方棟梁の辻内近江(おうみ)が請負い、まずは英国公使館から建設された。 ところが文久二年12月、厳重な警護の中を忍び込んだ長州藩の高杉晋作、伊藤利助(博文)、志道聞多(井上馨)、久坂玄瑞らの放火で公使館は全焼し、これが有名な英国公使館焼き討ち事件だ。1957年の日活映画『幕末太陽傳』(監督・川島雄三)は、居残り佐平次役のフランキー堺がすばらしかった作品だが、この焼き討ち事件が扱われていた。高杉を石原裕次郎、久坂を小林旭と脇役が妙に豪勢だったが、筆者が大好きな映画だ。 各国公使館が置かれた御殿山は明治になって西郷従道の所有となり、明治二十五(1892)年に財界人・原六郎が譲り受けて邸宅を設けた。古美術品愛好家の屋敷になったので、その屋敷跡である現在の御殿山庭園の原形はこの時代に作られたのだと思う。六郎の婿養子の原邦造も美術品収集家で、1938年に洋式私邸(設計・渡辺仁)を建て、この建物が1979年に孫の原俊夫によって現代美術に特化した原美術館になった。その際に増築を監修した建築家・磯崎新が1992年に原邸の日本庭園の中に設計したのが茶室『有事庵(うじあん)』で、これがいまも御殿山庭園の中に異彩を放つ物件として残っている。 一見して茶室とは思えない建物はステンレス製の躙(にじり)口、同じく腰掛け待合、チタニウムパネルの壁、アルミキャストの扉といった新感覚の建材を使っているのだが、内部は普通の二畳台目の茶室とあり覗くことはできない。この建物を外見からトイレとまちがえる人が多いときいたが、筆者も同じだった。 庭園内で見つけたもう一つの物件は、曼荼羅(まんだら)が描かれているのではないかといわれる石だ。よく見ると確かに何かが彫りつけてあり、それは梵字(サンスクリット語の表記に用いる文字)のようにも見えるので曼荼羅か経文を書いたものではないだろうか。原六郎は東洋古美術品のコレクターとあるから、そのひとつを庭に置いたのかもしれない。 その他にも、庭園の南寄りの低地は幕府が嘉永六(1853)年に海上防衛のために急遽築いた大砲の設置所である「御砲台場(お台場)」のうちの、品川沖に築かれた第四台場(総工費七十五万両)の建築用土を採掘した跡とのことで、これもこの地の履歴を示す物件であって、御殿山庭園は実に多くの〈土地の記憶〉を秘めた所と感心する。

御殿山の北、ソニー通りを隔ててある高みが城南五山の一つ八ツ山で、その山頂ともいえる高台にあるのが明治四十一(1908)年築の三菱『開東閣』だ。『開東閣』は三菱グループの会員制迎賓館で一般非公開だから、広大な屋敷林の向こうにある建物を見ることはできない。 開東閣のある地は幕末期まで川越藩松平大和守十七万石の陣屋地(第四台場警備担当)と近江水口藩加藤越中守二万五千石の下屋敷があり、廃藩置県後は伊藤博文の邸宅があったが、明治二十二(1889)年に岩崎弥之助が10万円で譲り受けて駿河台の本邸から和式邸宅と釈迦堂を移築し、さらに現存の洋館を新築した。設計はすでに岩崎家の邸宅を手がけて所縁のある英国人建築家ジョサイア・コンドルに依頼し、何度か設計変更があったのち明治三十六年から工事が始まった。 工事は三菱社直営で鉄骨煉瓦造二階建一部三階。コンドルはどちらかというとゴシック調の邸宅建築を得意としていたがこれはルネサンスのモチーフで統一され、重厚な外観と評された。戦災で内部を焼失したが戦後復旧工事が行われた。『開東閣』の名は昭和十三年に当時の持ち主である岩崎小弥太が三菱社に譲渡する際に命名したとある。 設計者のジョサイア・コンドル(1852~1920)は明治十(1877)年1月に旧工学寮が編成を改めた工部省直属工部大学校造家学科の教授として教壇に立つべく来日したいわゆる政府のお雇い外国人だ。全寮制で講義が英語で行われる国立の工部大学校は、明治日本の喫緊の課題である殖産興業政策に必要な人材を育成するための教育機関なので造家学科(建築学科)の教員への期待も大きかったが、新任の若いコンドル先生はよくそれに応えて明治十二年卒業の1回生から十九年の8回生まで21人の学生を社会に送り出し、彼らはやがて日本の建築家の礎になっていくのだった。 コンドルには他にもうひとつ、工部省営繕局顧問建築家の仕事があった。それは政府の大型建築プロジェクトを実行するというもので、上野博物館、開拓使物産売捌所、皇居山里正殿といった政府関係の大きい仕事を一手に引き受けて明治日本の顔になる建物を建設する大仕事だった。 皇居正殿案は計画中止になったものの、その後さらなる大仕事が外務卿井上馨からもたらされた。それがのちにジョサイア・コンドルの名とともに後世に伝えられる『鹿鳴館(ろくめいかん)』だ。日本の悲願だった不平等条約改正交渉の重荷を背負った井上馨がその打開策の一環として風俗の欧化、外国人接待所の必要ということから計画された『鹿鳴館』はコンドルの設計で明治十六(1884)年11月に開館を迎えるのだが、ここでいまに残る『鹿鳴館』の写真を見てみた。 建築に興味のある人なら、『鹿鳴館』は明治の西洋館にしては何かヘンに感じるだろう。2階ベランダの列柱が何故オリエントなトックリヤシなのか。そういえばこれも古写真で見た上野博物館(明治十四年・1881)の正面左右の塔屋や2階ヴェランダのアーチもなぜかインド風で、これもヘンではないかという違和感は当時もあって、それは後にコンドルへの不信感につながっていく。 この頃にコンドルが意図したのは、西洋建築を日本になじませるにはインド・イスラム様式を用いるのがよいということで、これは後で彼自身が書き残しており、つまり失敗を認めたとも受けとれる。政府が期待したのはコンドルが素直に純西洋式建築を設計してくれることだったので、そんなこんなで新官庁舎建設のプランも頑張ったのに採用されず、また工部大学校教授の任期が終わったことも重なって後任を弟子の辰野金吾に譲り、お雇い外国人を辞めて明治二十年(1887)に、自身の建築設計事務所を持つことになった。 それからのコンドルは、三菱財閥岩崎家やその他の名家・資産家を施主にさまざまな様式を用いてひとつの時代を作り上げる。そこにあるのは邸宅設計家としてのコンドルで、国家の象徴や記念碑的な大型計画には向かない建築家だったと、あとで人々が気づくことになる。 三菱『開東閣』も、これから紹介する城南五山の島津山にある清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)もコンドルのこの時代の仕事で、旧島津邸は『開東閣』から9年後の大正六(1917)年に竣工している。 現在清泉女子大学のある場所はかつては仙台藩伊達家(六十二万五千六百石)の下屋敷跡で、明治になっても木造の大名屋敷が残っていたところ、島津忠重の代に改築が計画され明治三十九年にコンドルに設計が依頼された。翌年に最初の案が作成されたが、その後二度の設計変更があり大正元(1912)年にようやく着工され同六年に竣工。同年6月5日に大正天皇、皇后両陛下の行幸を仰いだと伝わる。 計画から10年以上を費やしたこの邸宅だが古典主義のモチーフが各所にちりばめられルネサンス様式をしっかり表し、とくに室内意匠はすばらしく、この時代にようやく花開いたとされる日本のステンドグラス技術の成果もみごとだ。 八ツ山の『開東閣』、島津山の旧島津公爵邸とジョサイア・コンドルの2つの仕事から興味を持たれた方のために、東京にある、現存するコンドルによる別の2棟も紹介しておきたい。 ひとつは港区三田の『三井倶楽部』(1913年)で、三井家の貴賓接待所として建てられた倶楽部建築だ。建設時期が近いので旧島津邸に似たところがあるルネサンス様式だがこちらはバロック味が効いており、筆者はコンドルのベスト作と思っている。 もうひとつは文京区湯島の旧岩崎家茅町本邸(1896年)で、コンドルの現存最古作。岩崎宗家久彌の邸宅らしく大規模で豪壮であり、洋館はジャコビアン様式を基本にいくつかの様式を折衷していて豪華な装飾が見どころだ。屋敷内には他にスイスの山小屋風とある撞球室と生活棟にあたる広壮な和館がある。 またコンドル自身については、明治日本画壇の鬼才・河鍋暁斎に弟子入りして絵を描いたり日本舞踊家のくめ夫人から日舞を習い、花を活け歌舞伎を演じ落語もやりとただならぬ日本趣味にはまっていくそのルーツが、なんと来日する以前からの日本に憧れる心にあったという興味深いことにぶつかるのだが、そんなことを深掘りするスペースはないのでこの項はこれまでとする。
イラスト・文/小林泰彦
STAFF
Illust&Text:Yasuhiko Kobayashi
Text&Edit:Yukihiro Sugawara
Edit:Kyoko Seko
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