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名作として知られるトルストイによる長編小説『アンナ・カレーニナ』。世界的に称賛される、その魅力はどこにあるのでしょう。第5回は小説家・平野啓一郎と翻訳者望月哲夫氏の深掘りトーク。
連載「大人の読書タイム」第5回目では、小説家・平野啓一郎が、レフ・トルストイ作『アンナ・カレーニナ』の面白さを、光文社古典新訳文庫の翻訳者である望月哲男氏をゲストに語り合います。
※第4回、長編『アンナ・カレーニナ』の面白さとは?の記事を見逃してしまった方や、もう一度ご覧になりたい方はこちら
日本を代表するロシア文学・翻訳の第一人者。1951年、静岡市生まれ。現在、札幌に居住。中央学院大学特認教授、北海道大学名誉教授。専門はロシア文学で、ドストエフスキー、トルストイなど19世紀ロシア小説を、思想・宗教的な背景、時間・空間感覚、レトリックや言表の真偽に関する意識、ロシアおよびロシア人観といった角度から研究してきた。主な著作:『「アンナ・カレーニナ」を読む』(ナウカ出版2012)、『名場面でたどる「罪と罰」』(NHK出版2018)。主な翻訳:トルストイ『アンナ・カレーニナ』(光文社2008)、トルストイ『戦争と平和』(光文社2020〜21)、ドストエフスキー『白痴』(河出文庫2010)。
平野啓一郎(以下、平野):望月訳の『アンナ・カレーニナ』を再読し、僕は非常に感銘を受け、『ある男』にも引用したほどです。専門的な見地からのお話もお伺いしたく、今回対談させていただくのを大変楽しみにしていました。まずトルストイの創作活動の中で、『アンナ・カレーニナ』という作品はどのような位置付けなのでしょうか。
望月哲男(以下、望月):トルストイの長編小説というと『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』ですが、大雑把に言うと、『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』を書いた段階で、すでに普通の意味での創作を断念していました。自分がやってきたような文学を否定してしまって、文章を書いて人々に伝えるとしたら、倫理的に正しいことを自然なわかりやすい形式で、単純明快に伝えるべきだということを、自分の芸術の信条とするようになった。ですから、位置付けとしては『アンナ・カレーニナ』は、いわゆる複雑な構造を持った長編小説のジャンルでの彼の最終作なんですね。だから表現やレトリックのレベルでも、文体の美しさという意味でも、一番脂が乗りきっていると思います。
平野:トルストイは結局アンナという人物を、どういう思いで見つめているのでしょうか。それ が作品の主題でもあると思うんですが、いかがでしょう。
望月:アンナという女性を造形するためにトルストイはいろいろ試行錯誤していますが、結果として描かれたアンナは、女性美に満ちているだけでなく、賢くて躍動的、感情の動きも豊かで、自然と周囲を幸せにするような、魅力満点の女性です。とはいえ夫を持つ身でブロンスキーと恋仲になっていくので、けっして良妻賢母の優等生の枠にははまりません。いろんな方向の可能性がいっぱい詰まった存在、女性的なものの潜在力の宝庫のような人物としてトルストイは描いていると思います。
夜汽車の中で小説を読んでいたアンナ、つまり一読者の立場から恋愛物語を味わっていた生気あふれる女性が、やがて不倫の愛の当事者・ヒロインとなり、自己解放として恋愛を追求していくところが面白いと思います。しかしその物語を突き進んでいくと、当人の考えがだんだん恋愛一元論的になり、絶対の愛を勝ち得るか否か、愛されないならもう終わりだというような、出口のない状態に追い詰められていく。恋愛を唯一最高の価値とすれば人はどうなるのか——結婚とか親子関係とかいう制度とそれにまつわる倫理のテーマとは別に、男女の純粋な恋愛という物語自体の持つ虚構性や残酷さというテーマを突き詰めようという意図も、作者にはあったと思います。
平野:望月さんのおっしゃるように、アンナは非の打ち所のない女性であるようだけれども、現代の女性のように仕事を持ち、キャリアを積んで……というような生きがいがあるわけではなくて、恋愛至上主義になり嫉妬に狂うようになります。僕の分人主義の見地から分析すると、二人で生活しはじめてからのアンナは、ブロンスキー向けの分人が100%に近い比率で存在してるのに対して、ブロンスキーの中では、仕事をしてるときの分人がアンナ向けの分人とは別に存在します。その比率が大きくなり、アンナ向けの分人の比率が小さくなっていくように見えると、アンナはその 事に非常に嫉妬してしまって、仕事だけじゃなくて浮気をしているのかと妄想し精神的に追い詰められてしまいます。
例えば、フランスの19世紀の貴族女性は、社会で働かなくとも、サロンの女主人といったかたちで生き甲斐を得ていた人もいました。なかには有名になった人もいます。アンナが恋愛以外のものがなくなって追い詰められていくことに、当時のロシア社会における、トルストイの女性を見る眼差しが反映されてるということなんでしょうか。
望月:アンナも創作したり翻訳をしたりと、才能豊かな人間として描かれていますが、ただそれを発揮する十分な場所を持っていません。子供への愛や執着はあるのですが、子育てにおいても地に足がつかないような感じです(彼女が自分の娘の歯の数を知らないということが書かれています)。恋愛一元論になっていくと、仮に他にどんなものがあっても、うわの空で真面目に取り組めなかったようです。そこが彼女の踏み込んだ道の行き止まりになっているような気がしますね。
平野:もうひとりの主人公リョービンの話をしたいのですが、リョービンはいかなる人物なのかと探りながら読んでいくと、なかなか不思議で、例えば、ドストエフスキーの小説の登場人物のように、非常に強い自分なりの思想があって、それに基づいて行動してるというのではないですね。リョービン自身は社会規範にその 都度疑問を抱いて、今ひとつ自分がその通りに振る舞えず適応できないことをずっと悩んでいる。社会と自分との関係に悩み続けている青年ですが、リョービンという人物をどういうふうに捉えてらっしゃいますか?
望月:おっしゃった通りのところがあると思います。彼は教養があり、いわゆる思想・学問でも、あるいは農業の課題でも、理論レベルの理解では物足りず、自分の生き方の問題として咀嚼して、だからこうしようという方向性が出てこないと満足しない人だと思います。兄は評論家で、社会・国家論などを喋るのですが、リョーヴィンは兄たちを見て、彼らは何でもよく知っているが、自分のこととして考えていないなと思うのです。つまり、何事も自分のものにしなければ意味がないという立場で、他者を見るときも、その人は自分自身の思想とどういう関係にあり、自分の言っていることをどこまで自分の問題としてとらえているのかを気にする人なんですね。
平野:兄は農民問題に関わることが良いことで、農民を都市生活と対極的に理想化したものとして見ている。農民と直接的な関わりのあるリョービンには、そういうふうに美化することはできないという件が僕は非常に好きで、小説『ある男』の中にも引用したほどです。兄は当時のインテリのカリカチュアとして描かれ、リョービンはそれと対照的に、自分の実感で納得できないと信じることができない。その悩み方に、トルストイはある種の人間としての 誠実さを見ていたのだという気がします。
望月:トルストイは誰に自己投影してるのかという議論があり、いろんな説があるのですが、トルストイの考え方の多くがリョービンに生かされている感じがします。ただ、ほかにもいろいろな見方があって、アンナの夫のカレーニンもトルストイの原則主義的な側面を映しているという考えもありますし、自己の感情をひたむきに突き詰めていくアンナにも、トルストイの理想的な自我の一面の投影を見出せるのではないでしょうか。
実は、翻訳していて一番面白かったのは、アンナの兄、オブロンスキーでした。彼は相手によって自分を変える、「分人説」のカリカチュアみたいな人で、トルストイは話が行き詰まると道化役みたいに彼を出します。トルストイはああいう軽い人間ではなかったけれど、ただし堅物の自分を脱して、あんな飄々とした人間になってみたいという欲求も、あったのではないでしょうか。
平野:そうですよね、小説もオブロンスキーの話から始まっていて、この人が主人公なのかと読み進める人も結構いるんじゃないかと思います。
平野:作家の情報を入れずに読むテキスト批評というのもありますが、僕は作家というひとりの人間が書いていることは事実であり否定しようのないことですので、その作家について知ることが作品の面白味を増すのだという立場です。海外小説は特に背景の違う世界の人が書いているので、その人はどういう場所に住み、どういう人だったかということを意識しながら読んだ方が興味深く面白いと思います。その上で作者の意図や何を言わんとしてるのかを考えながら読んだ方が、読書が豊かになると思います。これは海外小説に限らないですけれどね。
望月:ロシアの小説は沢山の登場人物が出てくるので、名前がわかりにくいとか、人を把握しきれないと言われますよね。特に『戦争と平和』は500人以上出てくるので、訳者としても、その辺のとっつきにくさは、いかんともしがたいと思うんです。今、平野さんがおっしゃったのはもちろん前提ですけど、同時に作者が遊んでいるところ、張り切ってサービスしているところ、簡単に言えば洒落であるとか冗談であるとか、人の口まねであるとか、何かそういう単なる描写以上の独特なことを作者がしているようなところがあれば、そういうところが何かこう読むときに、救いになるというか目印になるという感じでしょうかね。
望月:どんな物語にも転換点があるような気がするんです。ここを境にこの人の運命は違ってくる。犯罪小説にもあると思いますが、普通の小説にもあるので、そういうものがある作品ならば、そこをうまくとらえると面白いです。少なくとも後半の内容は面白く味わえると思います。一読しただけでは気づかないことも結構あるので、繰り返して読むことも、味わいを深めてくれると思います。
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1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。
STAFF
Photo: Manabu Mizuta
Movie: Cork
Text: Junko Tamura
Editor: Yukiko Nagase,Kyoko Seko
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