小説家・平野啓一郎×翻訳家・鴻巣友季子対談。現代の小説へ大きな影響を与えたヴァージニア・ウルフ『灯台へ』をめぐって

大人の読書タイムVol.33

ヴァージニア・ウルフの名著『灯台へ』をテーマにとする第2回目は、翻訳を務めた鴻巣友季子氏を招いての対談。ウルフ作品の文体の特徴や翻訳の難しさ、そしてウルフが再評価される現代の潮流などについて語り合いました。

LIFESTYLE Jun 9,2025
小説家・平野啓一郎×翻訳家・鴻巣友季子対談。現代の小説へ大きな影響を与えたヴァージニア・ウルフ『灯台へ』をめぐって
鴻巣友季子さんの画像

対談者:鴻巣友季子

翻訳家・文芸批評家。東京生まれ。著書に『明治大正 翻訳ワンダーランド』『熟成する物語たち』『翻訳教室』『謎とき「風と共に去りぬ」』『翻訳、一期一会』『文学は予言する』など。最新刊は『ギンガムチェックと塩漬けライム』。翻訳にJ・M・クッツェー『恥辱』、M・アトウッド『誓願』、A・ゴーマン『わたしたちの登る丘』や古典新訳のE・ブロンデ『嵐が丘』、M・ミッチェル『風と共に去りぬ』など多数。大学でも長年にわたり翻訳を教えている。

『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ著

ヴァージニア・ウルフ著/鴻巣友季子訳 『灯台へ』 (新潮文庫)の画像
ヴァージニア・ウルフ著/鴻巣友季子訳 『灯台へ』 (新潮文庫)

フェミニズムの潮流で再評価されるヴァージニア・ウルフ

平野:昨年、鴻巣さんが翻訳された『灯台』が新潮文庫から文庫化され、非常に話題になりました。ハードカバーで刊行されたときと比べて、反応の違いを感じましたか?

鴻巣:そうですね。当時はSNSもまだ黎明期で、今のように読者の声が直接届く状況ではありませんでした。また、当時はまだ日本ではウルフの認知度が低かった。モダニズム系作家といえば、ジェームズ・ジョイスが筆頭でした。

平野:1960年代にはウルフ作品はよく読まれたようで、三島由紀夫も、晩年のインタビューでウルフに言及していました。「あなたの小説にもし欠点があるとすると、どこですか?」というような質問に対して、「ドラマチックすぎるところだろう」と答えた上で、「自分には、ヴァージニア・ウルフのような小説は、書きたくても書けないんだ」と。当時の日本の文学界では、ウルフ作品はすごく新鮮な印象だったようですが、その後、関心が下火になり、再び浮上してきたのが2010年代以降でしょうか。

鴻巣:そうですね。再評価されたのは、まずフェミニズムの潮流が大きいですね。ウルフの思想と作品がフェミニズムの文脈で注目され、女性作家としての位置づけがあらためて見直されました。そして現代は、町屋良平さんや井戸川射子さん、川上美映子さんといった若い世代の作家たちが、ウルフの影響が明らかな作品を発表した。こうした「ひそかなウルフファン」の存在が、次第に目に見える形になってきたように思います。

「こんなに面白い小説はない!」夢中になった20歳での出合い

平野:鴻巣さんとウルフの作品の出合いはいつ頃でしたか?

鴻巣:私がウルフを最初に読んだのは、大学2〜3年の頃、新潮文庫版、中村佐喜子訳の『灯台へ』でした。読み始めてすぐ、「こんなに面白い小説はない!」と夢中になりました。

平野:第一部はやや読みづらく、挫折する読者も少なくないですが、鴻巣さんは最初から引き込まれたんですね。

鴻巣:はい。当時の自分がどこまで理解していたかは自信ありません。ただ、とにかく強く惹かれて、それからしばらく、一番好きな小説を聞かれたら『灯台へ』と答えていましたね。

長い一文との格闘

平野:この作品は、翻訳がなかなか大変なのではないかと思いますが、どのような印象でしたか?

鴻巣:原文では、冒頭からものすごく長い一文が続きます。「ええ、いいですとも、明日晴れるようならね」とラムジー夫人が言って、それに続く一文で、息子がすっかり舞い上がってしまう様子が描かれます。そしてそのまま、「いよいよ探検に乗り出すんだ」という期待感が高まっていく。文章がどんどん連なって、息が続かないくらい。

平野:そうですね。途中で適切に切らないと、日本語としては冗長になりすぎてしまいますね。

鴻巣:そうなんです。なので実際に訳す際も、一気に訳すのではなく、区切りながら丁寧に進めました。原文の「ブレスの長さ」を、どのように日本語で再現するかということを考えましたね。

平野:『灯台へ』この冒頭の部分で、とくに翻訳を工夫したフレーズや言葉はありますか?

鴻巣:「待ちに待ったあの夢の塔」という部分ですね。この「夢の」という部分、原文では「wonder」となっていて、字句通りに訳せば「驚異の」あるいは「奇跡の」ぐらいでしょうか。しかしそれでは原文のニュアンスが出せないのではと思い、「夢の塔」と訳しました。この部分は、ウルフを研究する学者の方から「あの訳は創造的ですね」と言っていただき恐縮しました。

平野:鴻巣さんの翻訳の方針は、作品ごとに変わるのでしょうか? それとも基本方針のようなものがあるんでしょうか?

鴻巣:基本的に翻訳って、病気で言うと「対症療法」でしかないんですね(笑)。一貫した治療法はなく、その都度、原文と向き合いながら調整していきます。ただ、私は比較的、原文の語順をなぞるほうだと思います。とはいえ、あまりにも忠実にやりすぎると、日本語として不自然になったり、原文のリズムを損なったりするので、そこはバランスを取っています。

あとは、作家や作品によって翻訳の仕方を意識することも確かにあります。例えばエドガー・アラン・ポーの場合は、整理して訳しちゃダメなんです。整理すると、ポーの作品がもつ「怖さ」がなくなっちゃう。『アッシャー家の崩壊』という作品の最後に、屋敷が崩れる有名な場面がありますけど、理性的に考えたら、最初に壁が崩れてパカッと割れたところに、赤い真っ赤な血のような月が見える。だから、もう月が見えたときには、壁は崩れてなきゃおかしいんだけど、ポーの書き方ってそうじゃないんですよ。 最初にピピピシって亀裂が入ったので、何かが割れたように見える、その一瞬、 真っ赤な月がドーンって目に飛び込んでくるんですよ。そして一歩遅れて、壁が崩れていく。その認知認識のギャップに怖さがあるので、あえてきちんと整理せずに訳すほうがいいんです。

画期的だった「自由間接話法」が、今の小説では無意識に使い分けられている

平野:ウルフを原文で読むのは、やはり難しかったですか?

鴻巣:難しかったですね。一文が長いだけでなく、自由間接話法が巧みに使われています。自由間接話法とは、例えば「少年は不思議に思った。なぜお母さんは帰ってこないの? もう日が暮れるよ」というように、カギガッコを使わず、形式上は地の文でありながら、人物の内面を描いているものです。『灯台へ』ではそれが多層的に入り組んでいて、語り手の声、ラムジー夫人の声、そのほかの登場人物の声など、さまざまな人物の意識を行き来する構造になっている。それが誰の声なのか、それなりわかりやすく訳さないといけない一方で、あんまりはっきり訳してしまうと、原文のニュアンスが損なわれてしまう。

平野:日本語は主語を省略できるから自由間接話法と相性がいい面もあるけれど、難しさもありますよね。

鴻巣:そうなんです。英語の「he」「she」は大抵あまり大きな意味を担わない機能語ですが、それを日本語の「彼」「彼女」にすると、意味の価が重くなりすぎる。情報過多になってしまいがちなんです。

平野:現代の作家は、自由間接話法が使われている小説をたくさん読んでから作家になっているので、自分が小説を書くときにはあんまり意識せずに、無意識的に使い分けているところがあると思います。

鴻巣:そうですね。でも、原理を知らないと、読解や翻訳ではつまずきやすい。だからこそ、ウルフを訳した経験は自分にとって大きな財産になりました。のちに『風と共に去りぬ』を翻訳した際にも、ウルフを翻訳したときに鍛えられた技術が非常に役立ちました。誰もマーガレット・ミッチェルの文体が特別だと思っていないと思いますが、訳してみたら、実は自由間接話法や自由直接話法をものすごく使いこなしている作家だったんです。

クライマックスの強い印象を記憶に残す3部構成の組み合わせの妙がすごい!

Q.ウルフは「意識の流れ」という文体の特徴が注目されがちですが、小説の構成も非常に大胆で、素晴らしいと思います。お二人はウルフの構成力をどのように評価されていますか?

鴻巣:ウルフといえば、心情描写や意識の流れに話題が集まりますが、私としては構成や筋立てが面白い作家だと思っています。純文学の世界では「筋立て」とかいうものは馬鹿にされがちですが、そういうものは『灯台へ』を支えていると思います。ですから、「難解だ」とよく言われますが、実はすごくリーダブルな小説なんじゃないかと思います。

平野:前回も触れましたが、この作品は、例えば芝居にしたら、非常にわかりやすい3部構成だと思うんですよ。 第1部は家の中でずっと話して、第2部で荒れた家の風景が書かれて、第3部でついに、みんなで灯台へ向かう。小説としては、非常にモダニズム的に単純化された見事な構成だと思います。物語というものの起源を辿れば、最初は「記憶術」と深く結びついたと思うんですよね。文字がない時代は、その記憶できるということが重要だった。しかし印刷媒体が行き渡って、読者が細かい部分まで読み返せるので、筋をすべて記憶してなくても良くなった。そのおかげで、どんどん複雑な話を書けるようになったのだと思います。この作品も、読んでいて「あれ、どうだったっけ?」みたいなところも多々ある。一方で、1部、2部、3部の単純な構造だけは非常に強い印象を残していて、それぞれのクライマックスシーンの記憶もかなり強く残る。そのバランスというか、組み合わせの妙ですね。

鴻巣:今のお話、とても面白いですね。物語が始まった何千年前とかって、まず文字がないですよね。そこから文字が発達して行き渡って、紙を一つにまとめて綴じる製本技術というのもできた。本というものの境界線が見えるようになったということと、小説の発達は確実につながっていると思います。

平野:最初は聖書も巻物だったのが、それだと、「あそこでなんて書いてあったっけ?」と検索するときに、毎回くるくる広げなきゃいけない。それだと非常に手間がかかるということで、紙を綴じる形ができたようです。

鴻巣:それでいうと、私はめちゃくちゃ付箋をつけて読む人なんですけれども、今のKindleっていうものは、巻物に戻っていませんか? あの場面がどこら辺にあるって、体感できないんですよ。だからあれは巻物よりひどいかもしれない(笑)。

平野:紙の本は、昔読んだものでも、どの場面がどの辺にあったか、手で覚えていたりしますよね。Kindleはそれができないから、確かに紙の方が読み終わった後も使い勝手はいいですよね。

この続きは、 平野啓一郎さんと「文学の森」でもっと語り合ってみませんか?

「平野啓一郎の文学の森」は、平野啓一郎をナビゲーターとして、古今東西の世界文学の森を読み歩く文学サークルです。3か月毎に定めたテーマ作を、月に一度のライブ配信で読み解く、小説家による小説解説!

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PROFILE
小説家 平野 啓一郎
小説家
平野 啓一郎

1975年愛知県・蒲郡市生まれ。北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により第120回芥川賞を受賞。40万部のベストセラーとなる。以後、一作ごとに変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。2004年には、文化庁の「文化交流使」として一年間、パリに滞在。著書に、小説『葬送』『決壊』『ドーン』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』『マチネの終わりに』『ある男』など、エッセイ・対談集に『私とは何か「個人」から「分人」へ』『「生命力」の行方~変わりゆく世界と分人主義』『考える葦』『「カッコいい」とは何か』など。2019年に映画化された『マチネの終わりに』は、現在、累計60万部超のロングセラーに。『空白を満たしなさい』が原作の連続ドラマが2022年6月よりNHKにて放送。『ある男』を原作とする映画が2022年秋に公開、と映像化が続く。作品は国外でも高く評価され、長編英訳一作目となった『ある男』英訳『A MAN』に続き、『マチネの終わりに』英訳『At the End of the Matinee』も2021年4月刊行。「自由死」が合法化された近未来の日本を舞台に、最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子が「自由死」を望んだ母の<本心>を探ろうとする最新長篇『本心』は2021年に単行本刊行。ミステリー的な手法を使いながらも、「死の自己決定」「貧困」「社会の分断」といった、現代人がこれから直面する課題を浮き彫りにし、愛と幸福の真実を問いかける平野文学の到達点。2023年、構想20年の『三島由紀夫論』を遂に刊行。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品を精読し、文学者としての作品と天皇主義者としての行動を一元的に論じた。三島の思想と行動の謎を解く、令和の決定版三島論。

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